「自画像」 1972 30号 大分県立芸術短大付属高校所蔵

進来(すずき)哲さんは1905年、大分県臼杵市(うすきし)生まれの洋画家。東京美術学校(現東京芸術大学)では藤島武二に師事した。61年から県立芸術文化短大の教授をしながら県美術協会の会長を務め、多くの人材を育てた。帝展、日展、光風会に所属。80年、大分合同新聞文化賞。七十七歳で死去。がっちりしたフォルムによる安定感、若々しく豊かな色遣いが大家の風格を実感させる。

「椅子の婦人」 不明 80号

手袋とスケッチブックは、父の時代の「ハイカラ」さと「エレガント」の理想を感じさせ、服装の時代感覚を思わせる。服の色調は、どこか着物を思わされる。スカートの曲線フォームは浮世絵に出てくる見返り美人の着物のフォームになぜか相似形のように重なってくる。タッチも浮世絵版画の線のようだ。彩色は暖かくやわらかい。何か、着物、座布団、漆工芸のような過去の美の景色が写し出される。

「面を持つ女」 1979年 100号

メインテーマは、家族像に向かい、嫁がとつぐ喜びが表現されている。きつねの嫁入り、仮面をつけても、美しいという比喩。背景に嫁入り道具をつつむ唐草模様。もう失われてしまった。日本人の生活文化の心が現されている。愛情の比喩がくまなく時代背景とともに表されている。これは昭和の人々の心の表現である。暗い内面ばかりが芸術表現ではない。

「裸婦」 1929年 30号 大分県立美術館所蔵

当時の美術学校(今の東京芸大)、は西洋画を日本に移入する。本格的な西洋アカデミックな時代であった。藤島武二に学び西洋古典をどのように自分のものにするかであった。正確なデッサン、光と陰、油絵具の使い方など、父は学び身につける。しかし、当時の日本文化の中、学んだ新しい世界はごく限らたものであったはず。すでに西洋では、新しい潮流があり、アカデミックなものが日本に根付く余裕もなかったであろう。

「三人」 1956年 100号

(三人は100号の大作でショートカットにレオタード姿の女性徒が三人 座っている。昭和31年の第12回日展に出品し、入選を果たした作品。数ある作品のなかでも、特に進来さんが気に入っていたという。)
昭和30年代になって、人体は、戦前のモデルと比べると立派になっていく。丁度、日本人が精神的に力強くみなぎっている時代であった。色調は暖かく明るくバランスのとれた、高度成長を予感させる。不思議と時代と意識が対応している。戦前の暗い身体から大きな身体に変身していく。昭和の心をみごとに描いた代表作の一つである。

「静物」 1925年 4号

はじめて、油絵を手にして描いた。テーマもどことなく西洋的なセンスを思わせる。光と陰が正確に描かれている。まだ、色彩に自己思想をたくすまでになっていない。

「裸女 その1」 1930年 50号

西洋古典技法を徹底して行うのが、当時の西洋画を学ぶことであった。日本画も絵具の塗り方を順序よくしないと絵具、顔料の抵抗にあう。油絵も同じで絵具の順序も身に付けて、はじめて、身体らしくなる。まだ、光と陰は意識されている。

「裸体 その2」 1933年 8号

彼はまず、小さな作品で実践し、それから大作に挑戦した。何故か、もうすでに「光と陰」は意識されずに絵具の厚みで画面を構成する。もう西洋文化のもつ「光と陰」の主題はうすれ、日本文化固有のものになっていく。

「裸体 その3」 1933年 195×145cm

この大作は、西洋文化のヌードポーズを取りながら「光と陰」「遠近法」がない。西洋家具室内ではなく、和室のタタミにジュータンを敷き、平面的に大きく見せようとする表現力と、分厚い絵具と、漆工芸のような、文様のような地肌の中に裸体を浮き出させようとした。日本には「光と陰」「遠近法」という概念は重要でない文化である。

「深田石仏(大日如来仏像)」 1934年 10号

苔むした。首の落ちた。打ち捨てられた磨崖仏(まがいぶつ)の美しさと、ヨーロッパ古典が発見したギリシア彫刻のような、日本の「美」を独自に発見した。今は国宝になっているが、戦前、戦後しばらくは、このような状態であった。今まで美と思われなかったものを掘り起こすことも芸術では重要である。

「深田石仏(観音像)」 1934年 6号

日本文化は、対象をとらえる場合。「光と陰」で現象をとらえない文化である。美術学校での技法や主題は少なくなり、むしろ、何をどのように捉えるか。自分自身の固有のものになっていく。この作品ではすでに、「光と陰」は主張されない。どこからの光源か見当たらない。光は大きな主題となっていない。

「深田石仏(如来仏像)」 1934年 6号

対象を忠実に再現する。写実のために色彩に独自の解釈をしない。朽ち果てようとする仏像。打ち捨てられた、誰も見向きもしない仏像に、画家は光をあてる。写実は、歴史的記録としても役にたち、重要な役割を持っている。

「戦地からのたより(支那)」 1942年〜1945年 不明

昭和8年から昭和28年(28才〜48才)までの20年間芸術活動に空白がある。美術どころではない時代であった。およそ美術など、ごく一部のものであった。それでも父は、戦地から時々、中国の人々の様子、景色を絵手紙で母のところへ送った。人生の一番大切なときに、戦争があった。復員しても美術どころでなかった。父の年代の日本人全員が体験したものであった。

「女」 1958年 光風会(44回出展) 50号

戦後、ようやく父は、教職につき安定した。何をどのように表現するか、探求をはじめる。もう美術学校時代は姿を消し、平面的な人物描写をどの位に豊かにするか。主題もはっきりして来る。そして、日本人のアイデンティティ(identity 正体、本質)もはっきりとしてくる。

「祥子像」 1959年 30号

あいまいな光源の中に、平面的な表現の中で、どの位い、有機的な色彩、構成、解釈を探求する。人物を背景に、人物の個性、内面が総合的にボりュウームを持って表現する。戦後の西洋のアカデミズム(西洋の伝統的保守的傾向)はもう崩壊し日本独自の具象を探さねばならなかった。

「婦人像 その1」 1960年 20号

背景を大切にしながら、逆光の中に、色彩豊かなものが表れて来た。影は、古典的なものにしない独自の解釈が主題になっていく。戦後のモダニズム(現代的文化生活を反映した主観主義的傾向)、円や、三角形の意図的な構図が無理なく構成されている。色彩は父が生活して来た記憶。アイデンティティ(identity 正体、本質)を通して、無意識に決定される。着物の柄、色、布団、座布団、などで、人々の立居振舞いが思い出される。父の色彩は、日本人の色彩の心と感性をみごとに表現する。単に人物を描いているのではなく、絵の色に歴史や日本人が立ちあるのである。

「婦人像 その2」 1961年 30号

明治、昭和の人々の夢と格調は、絵の中に具現される。歴史を持った、立居振舞いの着物のポーズでなく、洋装(当時は洋装もハイカラであった。)に理想を求める。戦後、和装から洋装への転換期であった。その当時のファッションが忍ばれる。それ以後モダンなファッションも変化していく時代でもあった。顔の色彩は、静物の桃の色彩と同じだ。顔の陰も同じで、緑色を使った。

「船」 1961年 光風会(47回)出展作品 100号

父は海の子であった。高度成長の中、魚船、貨物船、和船など、もう二度とみることのない木造船を描いている。写実は、歴史を表現する。港の風景は、いつも落ち着く。船の動きが画面の中で、リズムとなって表現される。

「船だまり」 1960年 新日展(3回) 100号

下関の港の風景。船の美しさ。鉄の船、木造船、漁師の船、など。歴史の転換の分岐点を活写した。浮世絵に出てくるような船、比喩として父は重ねる。藍染めのような水。画面の中で躍動するように、また、リズミカルに構成している。

「残骸」 1946年 100号

復員して16年経つ、ようやく日本も貧しさより立ち直り、船という自分を休ませ、過去を振り返る。戦地から帰り、焼け野原であった。日本はその痛みを忘れない。残骸は、敗戦のそして、焼け野原の象徴として描いている。濁った海水。しかし、濁ったような表現にしない。着物の帯びの色のように表現する。色彩に意味を持たせる。

「造船所付近」 1962年 光風会(48回) 100号

もうこのような造船所は二度と返ってこない。この時代どこにでも見られた木造船の整備、造船の様子。その後、木造船はプラスチック、鉄の船に変化する。そこで働いていた人々はどこに行ったのだろう。和船の延長線上である近代木造船の美の結晶がいつのまにか消えていく。わずか40年前のことだった。造船所はどことなく独特な情緒のある環境であった。失われ行くものを活写する。

「緑衣」 1963年 100号

1963年といえば昭和38年。父は子育ても終わり、アトリエをかまえて、安定した心で描いた時代、自分の娘をテーマに家族像を描き始める。髪形、ワンピースが時代を思わせる。身体のフォームは、仏像のような記憶を重ねているように見える。なでかたは仏像だ。手のまるっこさも木彫仏像のようだ。「人物のフォームの確信、決定はどこからやってくるのか?」この問いは小さくない。父は無意識のうちに、仏像の記憶、経験、歴史に出合う。瞬間の出合いが父の内面にあったに違いない。とりもなおさず、歴史への信頼だ。

「火の山」 1963年 光風会(49回) 100号

とことん平面の中に山を平面的に描く。それでは画面をどのように力強くささえるのか?山の稜線による。リズミカルに分割する。「中腹の山の面=間の取り方」。近代画法によって、何か、日本的な分割の歴史を思わせる。色彩に於いて空は、着物の文様のような、山は、漆器、漆の味噌汁お茶碗。座敷の机、小さな机、監胎漆器、堆朱の机などの記憶の断片が喚起される。「火の山」の色。歴史の層であるような作品だ。美の表現は、そこまで、比喩として語れる。そこまで、表現として感じる。名作と思う。

「高原」 1964年 100号

「火の山」と同じような連作である。空は藍染めの色彩。画面を大きく3分割して、その中に川、木を点線として、斜めに走らせる。これは、西洋モダンアートと、日本古典のリズムを合体したように見える。

「女と牛」 1965年 新日展(8回) 100号

家族の一員である牛は、農耕文明の象徴。女がスカートをはき近代的なものを持っていながら、足は地下たびというアンバランス。乳牛も一種のモダンさ、戦後の内面のちぐはぐさが、見事に表現されている。アイロニー(irony あてこすり)に決してなっていない冷静に描写する。全体の色調は着物の帯び、納屋、ワラ、堆肥、自然との調和を象徴していると思う。昭和の人々の感性(歴史観、自然観)が良く出ている。我々は、この時期にその心を捨てようとしたのではないか?。あまり考えずに捨てたのではないか?

「赤牛と女」 1966年 新日展(9回) 100号 個人所蔵

父は、農耕文化の感性を意識して捨てなかった。父は牛も家族と同然のように、娘への愛情、家族愛の主題へ向かった。牛を背景に人物を浮かび上がらせると同時に、相互の関係を豊かにする。牛の茶色が茶色の石のようなボリューム感がある。そしてススキの情感が我々に伝わってくる。

「黒い牛」 1966年 光風会(52回) 100号

父のアイデンティティ(identity 正体、本質)について考える。 父が育った農耕社会文明が高度成長の現代化によって去ろうとしている。数千年、日本人が培ってきた文明から高度産業社会によって、日本人の心と文化の継承性が失われていく姿を観たに違いない。牛は、家族と同じだった。自然の厳しさと恵みと感謝が我々の感性と文化であった。その美意識が日本人から失われて行くのを黙ってみているわけにわいかなかった。父が育った文化をたえず表現することで、文化の継承性を願ったに違いない。父はたえず失われて行く虚しさを、昭和の人々の心を描きつづけた。

「海峡風景」 1968年 光風会(54回) 100号

山と海、島と海、海と岬、湖と山、陸と水の分割、その雰囲気、気配をよく主題にする。それは、その風土に育まれたからだ。日本の伝統的な自然観と神道的宗教感覚を、無意識的に持っているからだと思う。対岸(あの世)と手前(この世)の間を行き来し、動く世の中の比喩になっている。もう木造船でなく、現代の産業文明に突入している風景になっている。建物もそうであり、環境が劇的に変化していく姿が見える。画面は三分割の中に船の配置がいい快感をよぶ。日本の浮世絵の構成と重なっていく。いつも古典を忘れない。

「山」 1969年 100号

69〜70年代になる高度成長がピークを迎える。父は成熟していく、内面も豊かになり、主題の中に色彩について深く思いをこらしはじめる。記憶や歴史、そして人々のアイデンティティ(identity 正体、本質)について芸術表現をしていく。藍染め布団、お婆さんの持っていた巾着、和服の色彩、帯び、それを着ている人々が父の記憶の想像力の中で交差する。父が育ってきた心の風景が色となってちりばめられる。山を描きながら、比喩が厚みを持って喚起される。色に意味を持ってくる。この作品が美しいのは観えない記憶、歴史の人々の感性、文化が継承され、それが表現されているからだ。

「老梅」 1970年 光風会(56回)100号

70年代になるとポップカルチャー、抽象表現主義、ミニマル。。などの世界的芸術運動の流れの中、それに左右されず昭和に生きた人々の心を歌い上げる。日本も急激な変化の中、心は空洞化へ向かい、伝統的な心が崩壊し始める時代である。農村の人々が世界を旅行する時代であった。日本画のように、着物の文化の色彩が無限にちりばめられていく。失われて行くものへのレクィエム(requiem鎮魂曲,歌)。

「深田石仏(大日如来)」 1971年 30号

父は、石仏を飽くこと無く描く。色彩も年をとる毎に解釈しなおす。この作品は、黄金色のような黄土色を中心に描いている。旦 っては(接近して良く見ると)極彩色(非常にはでやかないろどり)に着色されたものか?黄土色がところどころに残っている。左側の暗さによって眉、目、鼻、唇が浮き出され、確実な、素描力、表現力が表にでないで、石仏の内面や表情が格調高く、我々に訴えかける。

「くぬぎ林」 1972年 光風会(58回) 100号

現在、里山が大切であり、自然を取り戻そうとする時代に入っている。くぬぎ林は、この木で炭焼きをし木炭として、かつては我々の大切な冬の燃料であり、また、椎茸を栽培するのにも大切である。里山は我々の日常の文化であった。昆虫もいる。父は当然その時代に生きた人である。このなにげない里山の風景、気配、空気を見事に表現することをテーマにした。取るに足りない風景、なんでもないものに父の目はいく。こんなものにも表現、美があるんだという事を伝えたかったに違いない。

「松像」 1969年 30号

父はなにげなく、家族像を描き続けた。当時64才、昭和44年。充実した、人生の安定の中。モダンな家具に母を座らせて描いている。母の表情は沈んでいる。父の年齢から今まで歩んできた人生を振り返る意識が自然にやってくる。44年という社会がみなぎっている。色彩は過去を重ねられる。背景の色は黄金色。すだれの色、板壁、ドロ壁、ワラの色、掛軸の布の部分など。服はお婆さんの和服、座布団、布団、着物の色が重ねられている。決して、西洋画を描いていない。それだけ、油絵というものが独自の発展を遂げて行く。

「猪ノ瀬戸風景その1」 1971年 20号

この山も実に美しい。父の若い時経験した着物の文化。人々が曼陀羅のようにちりばめ浮かんでくる。あやふやな色彩をちりばめる手法と表現で感動させる。

「猪ノ瀬戸風景その2」 1972年 20号

この山も「その1」のように美しい。分厚く塗られた絵具。高原の色彩、山は、まるで、お婆さんの着物の文様のようだ。帯びの色にも観える。日本人の美意識の深さの流れに父は従う。日本美の総体は、明るく美しいものである。美の流れの川は命と思う。

「禎子像」 1969年 30号

父の娘を描いた作品で、父にとって最も抽象的表現に近いものだ。この時代の美術の流れの中で、アメリカ、西欧が生んだ抽象表現主義という表現形式が全盛だった。父は内心穏やかではなかったと思う。具象表現から離れることはなかった。対象の内面や、心を表現するのには、抽象表現主義は彼を満足させなかった。

「人物像」 1970年 20号

この人物は何か憂いを持ったように描かれている。「光と影」を少し持った作品である。首をかしげるポーズと右より光を当てることで女性の内面を強調した。光を当てると必ず内面が強調される。父の作品の中で、光を当てるという作品は少ない。

「老梅」 1973年 100号

1970年制作の「老梅」と対になっている。春の気配と空気を感じさせる作品である。父は、日本画の素養を持った世代である。日本画の色彩がある限界を持っているが、日本の洋画は、自由に絵具が使用できる。父の中に日本画と洋画を区別する、区分けする考えは重要ではなかった。画面の中で、梅の枝だが、リズムを持って躍動する。精神の活力を具現する。色彩も、歴史(着物)の比喩をちりばめる。複雑に観賞できる。

「人物、M婦人」 1973年 30号

父の甥子さん(外交官)の奥さんで、マリージャン(フランス人)という方です。私も、子供時代に田舎で、真っ赤な赤のオーバーを着た若奥さんにお会いした。、本当に異国からという、鮮烈なイメージを持った。この作品は2回目に年月を経て田舎に再び来られた時に、父は落ち着いて初めて西洋人を描いた。父も彼女も成熟した雰囲気である。ブルーと黄色系の補色のハーモニーを持った透明感のある美しい作品である。

「廃船のある港その1」 1973年 100号

父の若い頃からの主題の一つである。父の内面が年齢と共に色彩に投影される。今にも夕日の中に沈みそうな自己の内面が映し出されている。しかも、誇りと格調高く。海水の色彩が成熟した画家らしい。成熟した表現をするのは難しい事なのだ。このピンクの紫色は着物の色彩の比喩にもなっている。あらゆる要素が自然にまとめられている。

「風景」 1973年 30号

父は海と船で人生を語る。大分県臼杵市に当時あった、小さな家屋と河口の港。今は、背景の家並みは失われて僅かな断片でしか残っていない。この風景は二度と返ってこない。我々は、今の時代に、過去の人々が造ってきた数多くの貴重な美の遺産を失っている。父はそれを良く知っており自覚的に色彩と形の中に、時代感覚と情緒を刻んでいく。友禅染めのようなたそがれを描く。

「廃船のある港その2」 1973年 50号

父の内面の空間は空洞ではない。内部空間は海に喩える位に豊かである。父の作品は、日本人の持つ内面がどの位豊穣であるか目に観えるように具現化する。内面は暗く冷たくみえても深いところは暖かい。これが、日本人が持つ心の層と芯ではなかろうか?人の心の美しさを感じ取ることを現代人は失いかけ、忘れているのではないかと思う。芸術とは何かという時、父の作品は模範的表現をしているのではないかと思う。

「船だまり」 1974年 20号

この作品は、内面自体が描かれている。内面は時に応じて、色や形を変えて表出する。日本人の宗教哲学に育まれた父は自在に飽くこと無く表現する。不思議な事に、海水がなぜ濁らないのか?心は濁っていると思いがちだが。父はそうならない。父にはトラウマ(心の傷)がなく前向きに純粋に描く精神なのか。日本人の心のよさを感じさせる。緑の色彩は緑色の寒天を思い出させる。

「杉の山猪ノ瀬戸風景」 1957年 30号

山の主題に取り組むのは、山の美しさを描くと同時に神道的感覚を持っているからではないか?山と同一化したいという感覚は父はいつも持っていた。色彩はお婆ちゃんが着ていた着物であり着物の文様と色を思い出す。山はお婆ちゃんが持っていた巾着だ。

「ヨットのある風景」 1974年 光風会(60回) 100号

ヨットが主題というよりヨットと「陰」実像より、鏡にうつる虚像に無意識的に重点が置かれる。画家の成熟さを自然に語ることは難しい。そして、このような心をもっても自然に描けない。日本人の成熟した実り有る心、心境。これが日本人の精神の輝きであり伝統だ。水に映る心象、風景、美しくはかない。それを詩的に語る。藍染めのような友禅のような色調の中に、心は充たされていく。これがかけがいのない日本の美と命。

「子供と牛」 1975年 100号

この作品も又、日本の美の連続性を感じる。家族同然の農耕の牛、納屋、牛糞、暗い泥壁、堆肥。。。などむせぶような農耕文化をかもし出す。これは決して肉牛の牛ではない。子供と牛はずっと昔よりのテーマであった。私は牛の背景のような色と文様の布団で寝ていた。座布団、掛軸の布、仏壇に置かれている敷布、などを連想する。この単語の連想は、歴史の美と夢の世界だ。曼陀羅である。

「櫻島風景」 1976年 50号

具象の風景を描きながら、内的な風景はより、自由自在に単純化され表現する。精神は単純化されていく。この桜島シリーズは繰り返し描かれている。内面を表出するのに、これだという一つのものはない。より純化された過程を見ることが出来る。鑑賞する側からみるより豊かに心の動きというものをみせてくれる。

「海への道その1」 1976年 光風会(62回) 80号

大分という風土の中で、失われていない過去の風景を父は意識して探す。そこに我々のアイデンティティ(identity 正体、本質)と調和があるからである。失われて行く、日本の美の風土、歴史、を父は危機感をもって描こうとした。「海への道」は、「人生の道」の象徴である。島や山に神々の霊が宿っている。という文化を比喩的に語っている。島はあの世、民家のかく乱こそこの世であり、また、生活と歴史でもあった。まだ、この同景が残っているかどうか。レクィエム(requiem鎮魂曲,歌)である。取り戻せない。

「海への道その2」 1976年 50号」

モチーフが明せきで、繰り返し、繰り返し父は描く。向こうのあの世の島に行くという自覚と、良くここまで生きてきたという心境。この家並みも自分と共に失うという切実なテーマであったに違いない。現代人は、この失った歴史。日本文明をどう再建するのか、どう継承するのか?という問いがこの作品にある。芸術の価値は、そのように内面にかかわるものであることをよく観せてくれる作品だ。

「婦人像」 1977年 50号

父は、身の回り、日常の人物母に目を凝らす。老境夫婦で画を描くという作品である。それゆえに初期の作品にもスケッチブックを持たせたポーズを描いている。主題はずっと同じである。背景の絵も二人して描き続けた。父の感謝の気持ちが有ったのであろか。

「画室にて」 1977年 光風会(63回) 80号

1997年の婦人像と同じで母の表情が充実し明るく描いている。背景はその為に寒色によって引き立てているように見える。

「女(T嬢)」 1978年 50号

父の元生徒を、嫁ぐ前の祝福として、描がいた作品である。背景のピンクはお祝いの色。結婚式の引き出物に使う、風呂敷の色。色が目出度いという格調高い象徴となっている。これが我々の文化であった。服の柄の色は「お能」に出てくる服装のようだ。父は色で我々の文化を語る。もうそれは失いそうだ。

「傘の下」 1979年 光風会(64回) 80号

これは、母、娘、孫の家族の一体化を構成した作品である。全て祝福の願いを込めた永遠のテーマだ。一本の樹木のように下方より上方にかけて寒色系より若葉(傘)となっている。このようにすくすくと育ってくれと幸せの願いが見事に表現されている。背景のピンク色は祝福と永遠の比喩として、描いている。群像を描きながらいろんな意味と願いを込めた代表作になっている。

「風景(鶴見山を望む)」 1979年 30号

太陽に照らされた山、里山と海を描いている。いわば、海と山に抱かれた農村を主題にしている。表現は色彩を可能な限り省略し、色彩で「光と陰」(ブルー)を、デッサン力で造型し、力強く表現した。

「風景」 1979年 30号

晩年になってくるとブルー、紺色のトーンが主になている。ブルーは透明性がある。他の色彩は、茶色、白色、黄土色、黄緑が配されている。心の安らぎ、静さ、不動性、孤高性が核になっている。風景、風土、環境がもう一度読み直されている。

「山湖」 1976年 50号

風景を遠景にする事で、自然と自己が関係づけられる。その事によって、内的な秩序と調和を確実にする。これが、晩年の心の調和を反映している。

「船影」 1980年 光風会(66回) 80号

船の実在と虚像が無意識のうちに、あの世とこの世が安定性を持って描かれている。心の幻影と幻想が確かなものとして描かれている。精神のバランスと調和が実に見事である。山も澄みきっている。

「女と乳牛」 1980年 改組日展 100号

死の一年前。成長した我が娘を着実に確かめる。自立した娘。がっしりとした構成。不動性を描写する。これが家族像の最後になる。次の時代に来たいという安らかな、しかし、確実な、意志力で表現している。

「奥湯布院」 1980年 20号

小百姓屋の生まれとして、晩年、田んぼと家に再び戻る。何か晩年は、人間は違った形で、取り戻そうとするのであろうか?そのことによってアイデンティティ(identity 正体、本質)を回収する。ああ生きてて良かったと思うのであろうか?いつも田んぼに苗を植えて、カエルが鳴き、生命が復活する。現代日本人が、文明や精神の危機に切実に求めている自然環境。里山を再発見した。そして、父の心の中には数千年続いた農耕文明の精神思想が一貫して生きている。

「春近し」 1981年 80号 絶筆

これは、絶筆となった作品で、父はガンで死の予感はあったに違いない。何でもない家と冬の田んぼ。その中に父は真理を観る。枯れた草、ワラ、土手、樹木は、父自身なのだ。しかし、それらは、芽吹き、春の気配が感じ取られる。タイトルも「春近し」であった。このように、風景を内的に結びつける画家は少ないのではなかろうか?これが昭和に生きた人々の心でもある。

「扇山を望む」 1965年 30号

洋画の風景の主題は、父の中、水墨画のようなものと重なるのではないか?大きな山、小さな家屋、海(湖)は洋画に描かれた水墨画である。近代の洋画は、自由に歴史や対象を解釈。変形(デフォルメ)近代的構成したものが特徴ではないかと思う。自由に描いても、いつも歴史、文化にとらえられる。

「黒牛とS嬢」 1976年 100号

この作品が象徴としているものは、人間と自然と動物との調和である。人物は現代人を描いている。牛は、歴史的な主題であり農耕の牛だ。父の思想の中に現代と歴史(記憶)と自然が有機的につながり、そして、形而上的(形をこえたもの)なものがあらわれている。このように象徴的に思想を絵に表すことは難しい。一般的な現代日本人の問題点に自然や歴史を捨てたのか、忘れたのか、重要視されなかった。経済成長一筋にやって来た。美術は、間接的であるが、それを、表現する力がある。牛は、ブルー紫に描かれ草原の石にも観える。黄色(人物)の補色対比に表現している。

「女と牛 その2」 1965年 100号

農耕文明の家族同然の牛と女の連作である。この乳牛は、農耕の牛と重ねて1965年という、高度成長期の中。産業文明に移行する象徴となっている。絣(カスリ)の野良仕事の服でなく、スカート、ブラウス(blouse 軽い上着)になっている。しかし、何故か地下たびを履いている。その微妙なアンバランスというか、ちぐはぐさは、文明転換期の日本人の心を反映している。父はアイロニイー(irony わざと意味を反対にして、皮肉にいう言い方)と無縁なところで、正確に描写する。父は「光と陰」「遠近法」でなくとことん日本固有の平面性の主題で描いている。

「牛と少女」 1971年 100号

この作品は人物像を中心に描いている。しかし、父が人物を描くとき背景をどのように、人物と同じ位の重量で描くか、いつも悩まされていた。野原と牛と人物が同じ比率で描く主題と横、三角形の中に人物と牛を入れてそれ以外は野原になっている。その為の光と影をつける。キャンパスという平面性のため、牛と人物が草の中にめり込み溶け合い、浮き立たせずに、構成している。父の中に、無意識に自然と動物、人物が一体化するという。日本文化の思想、哲学、宗教がある。それを、正確に表現している。歴史に断絶感が全くなくい。父の作品は鑑定者としていくらでも、解釈が可能で面白い。